生きるを考える
「死にたい」って思ったことありますか。
私はあります。
程度はさておき、日本の社会ってなんだか「死にたい」って簡単に出てきてしまう言葉なような気がします。
冗談として口にして出せて、笑ったり。
いろんなネガティブな感情がすぐ「死にたい」という言葉に変換されてしまったり。
どうでしょうか。
”死にたい”って感じている状態は、きっと”心地いい”からは遠いところ。
本当の気持ちはどうであれ、「死にたい」という言葉を選んでしまう心の状態も、きっと”心地いい”からは遠いところ。
だけど、いろんなネガティブな要因から”解放されたい”という願いを込めて発せられるその「死にたい」は、もしかしたら”心地いい”を追い求めているような気もしたんです。
だから今日はまたあえて”死にたい”という気持ちについて向き合ってみたいと思います。
”死ぬ”ことの対極にあるのは”生きる”だと思うのですが、
「生きたい」と思うのはきっとなんらかの理由で”死”に直面したときですよね。
私は「生きたい」と強く意識したことがないので想像ですが、
きっと病気になって余命を宣告されたときとか。
じゃあ「死にたい」って思うときも、”生きる”に直面したときなのでしょうか。
…あんまりピンとこないですね。
でも考えようによってはそうなのかもしれません。
”生きる”上で当然そこにあって、きっと避けては通れないものに直面したとき。
それは、大切な誰かとの別れだったり、孤独だったり、何かに失敗してしまったことでの恥だったり、何かを失ってしまったことでの喪失感や虚無感だったり、自信をなくしてしまうことだったり、自分の存在意義が分からなくなってしまったり、未来への希望が持てなくなってしまったり。
これらは全部きっと生きていく中で必ず出会うものたち。
だけど、いろんな事情と、いろんなタイミングで、いろんなものがいっぱい重なって、正面からそれらのものとぶつかったとき。
いつもはうまくかわしたり、ごまかしたり、乗り越えたりしてるのができまくなって、
「死にたい」になってしまうのかなと思いました。
でも正直よく分かりません。
よく分からないんです。
「死にたい」の言葉が出てくるときは、本当に「死にたい」という言葉でいっぱいになってしまって、本当の気持ちをみつけてあげるのが難しい。
どの気持ちに寄り添ってあげればいいのか分からないけど、”死にたい”ってきっと何かを訴えてるんですよね。苦しいとか疲れたとか。
このblogは「 ”心地いい”を探す 」がテーマなので、
今回のタイトルも「生きるを考える」にしました。
きっと深い深い自分のコアな部分に関わる問題なので、すぐに答えは出ないでしょうが、「生きるを考える」ならば、今ひとまずの答えは、
「 ”死にたい"と思う気持ちも抱えながら生きていく」
ということでしょうか。
今は469時中「死にたい」という言葉があるわけではありません。
でも、まだふとした時に出てきます。
きっと私の中に癒されていない心の傷があって、何かを訴えてるんだと思います。
だから、そのことはゆっくりゆっくり大切に聴いてあげたい。
「死にたい」という言葉を無理に消そうとしなくていいし、そう思う自分がいることも否定しなくていい。
「 ”死にたい"と思う気持ちも一緒に生きていく」
「生きるを考える」とは、
”死にたい”と思うことも含めて、まさに ”今、生きている” ということなのかもしれません。
今日も空は高く、青くてとてもきれいです。
そしてこの瞬間も、どの瞬間も、変わりゆき、だからこそ美しい。
今日も私は生きています。
いろんな気持ちを抱えながら。
それでも私はいま、生きています。