書くということ
さっきのblogを書いてから、改めて思いました。
やっぱりblogを毎日書こうって。
私はあんまり同じことをずっと続けるのが得意じゃなくて、
義務になってしまうと本末転倒だと思って特にルールは課してなかったんです。
だけど、さっきblogを書き終えて、やっぱり思った。
書くということには、こんなにも自分の心を癒してくれる力があるんだってこと。
特にこのblogでは、自分の心と向き合うことをテーマにしてて、
そして特に、自分の心の中にあるものを言葉に変換していくときに、
どの言葉を使うと1番自分の気持ちと重なるのか、
ゆっくりゆっくり自分の心と、1つ1つの言葉と向き合っていく。
そんなプロセスが私の心をすごく癒してくれていたことに改めて気が付きました。
最近ちょっと嫌なことがあったんです。
何気ない人の言葉、何気ない人の態度に傷ついて。
いろいろ心を守る答えを見つけて、大丈夫になったフリをしてたけど、
やっぱり心の中に残ってる。
たぶん向き合わなくても明日から生きていけるけど、
こういう小ちゃなキズの1つ1つを大事に癒してあげないで、
そのままにしておくと、理由はわからないもやもやに繋がったり、
急にあるとき心がいっぱいになっちゃうんだろうなぁって。
たとえば書くことで、他にもいろんな方法できっとよくなるって分かってても、
できないことってありますよね。
なんでだろう。急に気が重くなっちゃってできないことがある。
癒されるって分かってても、そこまでにエネルギーがいるからかな?
そのがんばりさえも疲れちゃってるからかな?
もしかしたらがんばってもうまくいかないかもしれないって恐いのかな?
どうなんだろう。
一応このbolgで言えば、書いてて最後には“心地いい”と思える気持ちの着地点を見つけるのが目標であり目的。
それがプレッシャーになってるのかな。見つけなきゃいけないって。
でもどうしてもしたくないのは、“心地いい”って感じられないままに、
なんとなく“綺麗事”的なところに着地してしまうこと。
それじゃあ意味ない。私がしようとしている生き方はそうじゃない。
だからこそ、そこはどうしても妥協したくないんだ。
人間ってつくづく不思議だなぁって思う。
言葉で考えて、言葉で整理して、言葉で伝えて。
だけどそれ以上に「感覚」という絶対的なものを持っている。
そういうのを考えるとき、やっぱり神様が人間という存在を創造したんだろうなぁと感じる。
こういう存在に創造した。
そこに偉大なる意味はあって意味はない。
なぜかそれが自分を大事にしたいという感覚につながる。
1歩進んだと思ったらまた前いたとこにいるような気がしてまた迷子になることを繰り返してる毎日だけど、
それでも今日という1日が実はとても愛おしいということを教えてくれる。
誰かを大事にするということ、自分をもっと大事にするということ、
10年後の自分はもっとうまくできているだろうか。
生きていくってきっと、こういうことなんだろうなぁ。
なんて漠然と思った。
自分と向き合い、気付きを得る。とても愛おしい時間だと思う。
そして、自分と同じように大事にしたいと思える人たちの存在。
たとえそれが1瞬だとしても、広がる世界中全てのものに対する慈悲の心。
本当は毎日こんな風に生きられたらと思うのだけれど。
まずは、書くこと、自分の心と向き合うことから始めてみよう。